何を思ったか、急にコラムというものを書きたくなりました。ところでコラムって何?
正しい意味を知っておかなくてはいけないと思い、辞書で「コラム」を調べると、
『新聞・雑誌などで、短い評論などを書く欄。また、その記事。』とありましたので、
じょるのなりに、新聞・雑誌などで、短い評論などを書く欄。また、その記事を書いてみたいと思います。
★前のページ(第11回〜第20回)へ
★次のページ(第31回〜最新まで)へ
<<第21回〜第30回>>
第30回目【映画「大日本人」感想】2007年6月9日(土) |
【ご注意!】 大いに、ネタバレを含みます これから観るという人はご注意を! もともと映画館で観るつもりはなかったのだが、カンヌの話題もあり、また、あまりにも松本さんが煽るのでつい見に行ってしまった。 感想を書くにしても何から書いて良いかわからないが、大日本人を観終わった直後に私が思ったことは「松ちゃん、やっちゃったな…。」ってことです。 別に、私自身は裏切られたつもりはないんです(と言うのも、最初からそこまで期待はしていなかったので)。 もちろん笑えるシーンはあるのだが、あくまでも単発(小ネタ)である。1本の映画・ストーリーとして、笑えるところはほぼ皆無である(最後のオチも含めて)。 ちなみに、私が一番笑ったのは「なぜビッグボーイ、とか思ってんじゃねぇよ」です。 インタビューのシーンから始まる冒頭。誰もが少し長く感じるシーン。 だが、松本人志を知る人々はこれがネタフリの部分だと思って我慢することはできる。しかし、実際ここでのフリは「巨大化する事」へのネタフリが主だった。 すでに、主人公・大佐藤が巨大化するということをテレビの事前特集などで事前に知ってしまっていた私たちにとっては退屈な…、いや、我慢を強いられたシーンであったのは確かであり、公開まで一切内容を明かさなかった意図は実はここにもあったように思える。 カンヌ映画祭に招待された影響で、「巨大化する主人公」と各メディアで明かされてしまったため、このシーンに限って言えば、(カンヌ招待は)マイナス要因だったように思えた。(巨大化するということを知らずに見たかったし、見せたかったんだと思う。) また、私はこの映画をインタビュー形式にした良い効果というのはあまり感じられなかった。 と言うのも「言葉で説明しすぎ」なのである。折り畳み傘にしてもふえるワカメにしても、ある短いエピソードを作り、それをシーンとして見せることで暗に表現しないと、「画」で見せる映画の意味が無い。言葉だけで説明してはダメだ。電車内での娘へのプレゼントに関してもそうだ。 当然、「画」で見せるシーンもあるのだが、それはストーリーとしてではなく、笑いとしてその手段を用いてる箇所が多かった。 言葉で選択をあやふやにしておき、その結果を画で見せそこで落とす手法だ。腰に広告は嫌だと言い、結果を言及しないまま広告の貼られた腰の画を見せる。 娘にモザイクはやめてくれとだけ言いモザイクのかかった娘の画を見せる。などなど。 笑いにおいては効果的に使っており観客に笑いも起きていたが、映画としてストーリーとしての効果的な「画」の見せ方はできていなかったように思えた。 「画」と言えば、冒頭のインタビューシーンの時点ですでにカメラワークのわざとらしさが気になった。意図的な入れ込みが多いのが気になった。 バスシーンでの折り畳み傘や、大佐藤宅の表札、電変場までの看板など、もっとさらっと自然にできはしなかったか、と。 そして、1発目の獣「締ルノ獣」が登場。ここで一回私のテンションが上がったのは確か。おもしろくなりそうだったからだ。これから様々な獣で笑わせるのもひとつの手段なんだと察知したので、あと何匹かは当然出てくるであろう獣に期待を寄せた。 しかし、次のインタビューシーンで、さらなる我慢を強いられることになった。ハッキリと退屈を味わう箇所だ。 三河へ移動中でのインタビュー、電変場でのインタビュー等。(ただ、スクーターで電変場に向かうシーンはお見事だった。ここはちゃんと見せる「画」になっていた。) 電変場のシーンでおもしろかったのはハンコのシーンだった。パンツに自らが入り込んでいるシーンは不特定多数の人々の為に作ったわかりやすい笑いだったと思う。(というか、大佐藤自身そうせざるを得ないため、ギャグではなかったかもしれない。) 他に、三河では防衛庁のおじさんにインタビューするシーンがあるのだが、私は台本通りしゃべっていると思ったので少し長くイラッとしたシーンであったのだが、パンフレットによると、台本に無いことを質問したらしく防衛庁のおじさんのアドリブだったようだ。そうなら、自分で言ったことで自分が苦しんでいる防衛庁のおじさんはのシーンは確かにおもしろかった。何となく残念なもったいないシーンだと感じた。「映画」だというのが邪魔をした。 その後の大佐藤が巨大化するシーンは迫力あったし、軽快に走っていく大日本人の後姿は笑えた(予告でも流れてるシーンですね)。 しかし、「跳ルノ獣」でトーンダウン。これといった場面が無かったからだ。しかし、重要なシーンはあった。 胸に広告を入れてしまったため、跳ルノ獣をつかんだ時にマネージャーの言葉を思い出し跳ルノ獣を取り逃がしてしまうシーンは、私の中で、スポンサーや視聴率のせいでテレビでは好きなように戦えない(好きな笑いができない)芸人・松本人志と重なった。これは私の中でかなり重要なシーンである。 その後の獣が登場するシーンでは、「睨ムノ獣」を倒した直後に赤い獣ミドンがいきなり登場して大日本人をボコボコにするシーンはまた少しテンションが上がった。 結局、5つの獣(ミドン除く)が登場するのだが、その登場間隔が短くなっているのは確かなのだが、もっともっと詰めても良いと思った。それこそ畳み掛けるように。それにしてもCGのシーンは本当に迫力があった。 四代目がからむシーンでは、かなり「笑い」を意識したシーンであるのは間違いなく、ネタフリも一番しっかりしていた箇所だったと思う。 四代目に認知症が少し表れていることや、大佐藤が四代目を思う気持ち(松本さん自身がおじいちゃん子だったので、ここでも私の中で大佐藤と松本人志が重なった)がそうだ。それらのフリがしっかり成立していたと思った。 だからこそ、確実な笑いにつながり、劇場のお客さんの反応も全体的に良かった。 そして、居酒屋のシーンから大佐藤が無理やり変身させられるシーンまでは(私の中での)この作品の肝であった。あの名台詞「大日本だよ!」もこの箇所で登場する。ふれあいが流れ、防衛庁が大佐藤宅へ侵入し、その全てが中継されている(このシーンの切なさは、3年B組金八先生Uで加藤と松浦が警察に逮捕されるシーンと重なった)。 私にはこのシーンが強烈だったこともあり、ヒーロー大佐藤の哀愁映画として幕を閉じていたなら、大変すばらしい映画として何の問題もなかったのだが…。 しかし、松本人志が作ったのは、お笑い映画だった…。 最後は、スーパージャスティス一家が登場しミドンをボコボコにし、それをただ見るだけしかできない大佐藤が表現される。ここで象徴していることはわからなくもないのだが、ただそれだけ、表面だけ意味を持たせたシーンだった。ここに持ってくるためにネタフリ・伏線は一切ない。よって、ここで、ポカーンとさせられた人々がたくさんいるのは間違いなくそして当然である。 さらに、ポカーンとなる要因として、同時にCGから実写に変わったというのがある。私も正直、これらの情報に頭が追いついていなかった。作品を全否定しまうシーンだったからだ。今まで100分近く築き上げてきたものを一気に全否定しまったから。 「全否定」という言葉を使ったのは、ここで起こるのは「意外性」でもなく、「うらぎり」でもなく、ただの「否定」だと感じたからだ。先ほども記述したが、ネタフリ・伏線が一切ない(私が気づけなかっただけ?)。あるとすれば、「CG」とうフリのみだ。 そのおかげで、ここで表現したかったであろう松本人志のメッセージが拡散しているのである。そして、とても尻つぼみな印象だけを植え付けられてしまう。 肝心な最後のシーンがこうであったため、私は「松ちゃん、やっちゃったな…。」と感じた。 もっともっと1本筋の通ったシンプルなテーマを持って作るべきだったと思う。少し、いや、かなり欲張りすぎていろいろなことを詰め込みすぎて失敗したパターンだ。しかも、それが最後の実写部分にすべてぶつけられている。 もういろんなことがゴチャゴチャしていて、結局何が言いたかったのか?何がしたかったのか?また、この映画作るきっかけとなったアイディアとは一体何だったのか?わからなくなってしまった。 大佐藤が巨大化するということ。制作費に10億円掛かっているということ。 少なくともこれらの情報がなければ、もっと違う感じで観ることができたかもしれない。「10億円」というキーワードがオチの実写部分の表現を邪魔しているように思えたからだ。 私が勝手に思う松本人志のメッセージとは、世間から風当たりの強い「ヒーロー大佐藤」は「芸人松本人」志自身のことであり、先述した胸の広告(テレビ放送だという主張)を気にして好きなように戦えない様や、おじいちゃん子であること。また、大佐藤宅の塀のラクガキや電変場へ向かう坂の途中の看板などは、世間やネットなどでの松本人志に対する批判を表しているのだろう。(そして、余談かもしれないが、作中唯一使われている楽曲中村雅俊「ふれあい」は、相方・浜田雅功が大変好きな曲の1つである。) 世間から何をどう言われようと、芸人である松本人志は自分の思う正義(笑い)をこれからも貫いていくこと、守っていくこと。これが映画「大日本人」最大のメッセージだと思っている。 だからこそ、実写やスーパージャスティスのせいで、そのメッセージが否定されグダグダになってしまったのが悔やまれる…。(と私は思っています) 最後に。私にとって全体的に笑えない作品だったのは確かである。しかし、おもしろい映画ではあった。あの世界観にも圧倒された。そして、感性をめちゃめちゃ揺す振られる映画であった。 もし、このコラムに対する感想を頂けるなら、通常の掲示板ではネタバレを含む感想は控えてくださいねm(__)m でも、みなさんの感想もお聞きしたいので、大日本人の感想用の掲示板を別に設置しました。こちらはネタバレ含みOKとします! よろしくお願いします! |
第29回目【面白い奴は暗い!?】2006年12月06日(水) |
最近、掲示板でちょこちょこ話題になっていたんですが、「おもしろい奴は暗い」という考え方があるようです。 おそらく、これは「遺書(松本人志著)」が影響しているんだと思います。「おもしろい奴の条件」の頁に「暗い奴」ってのがあったんですよね。そのためでしょう。 私としては、「おもしろい人」と「暗い人」には何の関連性も無いと思っています。 しかし、「暗い人」ではなく「周囲から暗いとレッテルを貼られてしまった人」がおもしろい人であるという関連はあると思っています。 『学生時代は暗くて目立たなかった人がプロの芸人になって大活躍している』というエピソードをよく耳にすることはありませんでしょうか?実際、私もそのようなエピソードはよく聞きますし、実際、そのような芸人さんも多いようです。 では、なぜ、そのような芸人さんは突発的に急におもしろくなったのでしょうか?学生時代暗かったのに、なぜ突然明るくおもしろくなったのでしょうか? そういったタイプの芸人さんも根は元々明るくて、そしておもしろく、そして目立ちたがり屋だったはずです。ただ、それを表面に出さなかっただけで「暗いというレッテルを貼られただけの人」なのです。 これがポイントで、「実際に暗かった人」なのではなく、「暗くおとなしいと周囲に勝手に思われていた人」におもしろい人が多いのでは?と思っています。 じゃあ、なぜ学生時代に、その目立ちたい・おもしろいといった部分を表に出さなかったのでしょうか? 思うに、そのような人は学生時代にそれが出せなかったのだと思います。出したくてもできなかったのだと思います。それは次のような環境があったからでしょう。 ・授業中におもしろいことを言ったところで、「授業のジャマ・他の生徒の迷惑・授業中にふざけている」とされてしまうのが恐い ・全員が全員、笑いに興味のある人間ばかりじゃないので、自分のみが浮いてしまい白い目で見られるのが恐い ・笑わせたいと思える人間が周囲にいない ・感性を共有できる人間が周囲にいない ・バカと思われたくない・非常識な人間だと思われたくない …などなどの要因があると思います。 芸人さんで、学生時代に友達が1人もできなかったという事も上記のことが関係していると思います。周囲の人間や環境と波長が合わなかったんだと思います。 おもしろいことを言いたい!目立ちたい!しかし、それができない状態・環境にあったのでしょう。そのような状況・環境がジャマであり、もしくは、そのような状況・環境に遠慮してしまっていたのではないでしょうか。 しかし、いざプロの芸人になると、状況・環境は当然変わります。 おもしろいことを求めているたくさんのお客さんや茶の間の人々、おもしろいことをすれば認められる環境、常にバカなことやおもしろいことが正とされる世界…。 また、学生時代にはバカだとかふざけていると誤解されていたことだって、芸人だと「だって仕事だから」と言い訳もできる。 それだけの状況・環境が整っていれば、上記に挙げたような要因は一切気にせずに安心して、誰に気を使う事も無くおもしろいことを自由に表現できるわけです。 要するに、暗い人だからおもしろいわけでもなく、また突然おもしろくなったわけでもなく、取り巻く状況・環境が変わったんです。 じゃあ、学生時代に明るかった人は面白くないのか?と言えば、それもバカげた話、そんなことはありません。「明るく楽しい人」にもおもしろい人はいるでしょう(ここでもここでも厳密に言えば、周囲に「明るいと思われていた人」です)。 ただ、「周囲に暗い思われていた人」とは違う点があります。それは「笑いのタイプ」が違うということです。 「暗いとレッテルを貼られていた」人の笑いは、ネタフリや問題定義を必要とするタイプの笑いです(笑いのきっかけが自分発信ではない)。 それに、人からの目・評価をすごく気にするタイプであり、自分の笑いの結果が酷評されたり悪く言われるのを必要以上に恐がるタイプです。結果を求めすぎるゆえに、必然的に口数が少なってしまいます。それが暗いと思われていた要因でもあるでしょう。 そして、「明るく楽しいと思われていた」人の笑いは、ネタフリや問題定義を自ら起こし自身でそれをオチまで持っていくタイプの笑い(笑いのきっかけが自分発信である)。 そして、自分が(またはその場が)楽しいければ良し!という意識が強いため、自分の笑いの結果についてはさほど気にはしないタイプです。ですから、どちらかと言うと、頭の中で吟味することなく思ったことがすぐ口に出てしまいます。 このタイプは、良くも悪くも笑いの結果を気にしないため、街中で騒いでいる若者達や電車の中のおしゃべり高校生などもこのタイプ(明るく楽しい人)の中に含まれます。 学生時代に明るくおもしろかった人がプロの芸人になるとつまらなく売れないケースが多々あります。それは、結局、街中で騒いでいる若者レベルだったからです。このタイプにはそんな落とし穴があります。 また両タイプの別の異なる点としては、 「暗いとレッテルを貼られていた人」がプロの芸人になった場合は仕事とプライベートの差が大きくなる傾向がありますが、これが「明るく楽しい」人の場合だと、仕事とプライベートのテンションの差がほとんど無いと言うことが言えると思います。 まあ、必ずしも全部が全部、この条件には当てはまるわけではないでしょうが、ざっくり大きく分けるとほぼこのように分かれるのでは?と思っています。 要は、「おもしろい奴は暗い性格である」というのは何の根拠も無いですよ!と、私は言いたいです。 せっかく明るい性格なのに、芸人になりたいから普段は暗くしておこうといったもったいないことはやめましょう!(実際、世間にはそういうイタイ人がいます) そもそも、「暗い」と「明るい」の線引きはどうやねん?というのはありますよね。 私に言わせれば、明石家さんまさんは「暗い人」に分類されます。暗いんだけど、周囲からは「明るく楽しい人」と思われている(本人自らそう思わせている)人だと思っています。 最後に。 今回の内容は「たまごが先かニワトリが先か」みたないところがあります。 元々持って生まれた笑いのタイプが異なるのでその表現方法も異なり、その結果周囲からの印象が「暗い」とか「明るい」とかに大きく分かれるのかもしれませんね。 このあたりは、実際のプロの芸人さんの実生活や学生時代を知らないので、これ以上は言及できませんが。 |
第28回目【冬のスポーツ】2006年2月18日(土) |
スポーツには全然興味の無い私ですがオリンピックは見てしまいます。 その理由は「4年間」というキーワードですね。たった一度失敗すると次のチャンスは4年後になってしまう。で、4年間ってのは中途半端にええ時間で、その4年後、年齢的に体力が落ちているかもしれない。けれどギリギリ何とか出場できるかもしれない。しかしながら、その4年の間に新人有望選手が育ち登場してたりもする。 この「4年間」ってのが様々なドラマを生み出していると思います。私はそのドラマ性に惹かれてしまいます。 日本人選手がメダルを取ればやっぱり嬉しいですし、取れなくても各選手が満足のできる結果を出せたならば感動します。オリンピックってのは、「明日があるから明日でいいや」という私自身の怠惰な考えに刺激を与えてくれます。 「4年もある」じゃなくて選手にしてみれば「4年しかない」んだと思います。 今まさに冬季オリンピック開催中ですが、夏季オリンピックに比べて思うことがあります。 まず、女性選手にキレイな人が多くありません?競技が競技だけに選手達の出身地も雪国が多かったりするでしょうからね。雪国美人、秋田美人という言葉があるように、寒い地域の出身の女性選手にはキレイな人が多いんだなと思いますね。 まあ、そんなことはどうでもいいのですが、冬季オリンピックを見てると非常に「これ、無理あるなぁ…」と思うことがあります。 夏季は各競技、走ったり、泳いだり、格闘したり…とバリエーションが豊富じゃないですか。そして勝ち負けのルールがシンプル。速い物が勝ち!高い者が勝ち!距離が長い物が勝ち!みたいな競技が多い。 それに比べて冬季の場合、バリエーション的には「滑る」の一つでまとめられてしまいますし、勝ち負けの判定が複雑すぎます。 特に冬のスポーツは「判定」で左右される場面が多すぎますよね。 陸上は「一番速ければ勝ち」ってすごくわかりやすいし納得もできます。しかし、冬のスポーツも本当ならば「一番速く滑れた人が勝ち」で良かったのですがそれだと競技・種目が増やせない。いろいろルールを考慮しバリエーションを作っていったと思えます。意図的じゃなくても、冬のスポーツはそのようになっている気がします。 ボブスレーでも「速く滑ったら勝ち」なんですがそれだと他の競技とかぶってしまうので「よし!じゃあ専用のそりを使おう!」と区別化を図ったと思え、またカーリングも早い遅いではなく「よし!人が滑るんじゃなく石を滑らそう!(しかも掃こう!)」とこれまた区別化を図ったと思えます。 スポーツとして確立させるためには人間の手でさまざまなルールを加えて1つの競技が完成されるのでしょうけれど、結局はその「ルール」、または勝ち負けの「判定」で本来実力のある人の実力が出せなかったり、そうでもない人が偶然うまく勝ててしまったりすると思います。 冬季オリンピックは夏季オリンピックに比べてそこが大きく気になります。 例えば、ジャンプ競技の場合、スキー板の長さで飛距離が大きく変わるらしいです。そして当然体重によっても飛距離が大きく変わる) 。で、どうしたかというと、体重別で使用して良いスキー板の長さを変えるというルールが設けられたようです。しかし、そのルールによって、有利になる人、不利になる人ってのが絶対でてきます。特にその基準の境目前後になる人は有利不利が顕著に表われそうです。 体重に関係なく好きな長さの板の使用OKとし、体重別で跳んで一番長い飛距離を記録した人が勝ち!なら見ている方も単純でわかりやすいですし、そこまでルールに左右されることもない、はず。 あと、モーグルってなんで斜面がボコボコしてるんですか?あれは完全に人間の手が加えられてますよね?自然に振った雪の形のままじゃないですよね?あれが気になります。 なるべく自然な状態で、速い、高いだけで競えないものなのでしょうか?斜のがボコボコがなければ違う結果になっていたでしょうし。もっと言うと、ボコボコがあったとしても、ボコボコの数や大きさが違っていれば、また違う結果になっていたでしょうし。 ニセボコボコ(紙風船みたいに踏むとぺしゃんこになる)とかあったりしたら、また違う結果になると思いますし。 あと、判定競技が多いじゃないですか。モーグル、スノボー、フィギュアスケートだったり。 全員の選手に同じことをさせないのはなぜなんでしょう?技の順番などプログラムが先に決められていて、それを全選手が行って競う。それってできないものなのでしょうか? 判定でもジャッジする人間が5人いたとして、その中に地元国の人間がいた場合、点数が甘くなる。でもこれは仕方ないと思いますし、どの国もみんなそうしてるんでそれはそれでバランス取れているようにも思えます。それは別にええと思うんです。 しかし、ルールによっては採点方法の加点法が減点法に変わったりそれが逆のままだったりで、そのせいで勝てなかった人が勝者になれたり、その逆もあると思います(まあ、同じ事ばっかり言ってますな)。 そもそも、ジャッジが5人じゃなくて7人だったら、これまた結果が変わっていると思いますし。 スピードスケートなんてまさにそれだと思うんですよ。 本当は陸上のようにある程度の広いトラックで滑りたいところなんですが設備の都合上と言いますか、ショートトラックなどは小さなリンクを5人ぐらいでグルグル滑らないといけないようで。そうなると、そりゃ衝突もあるでしょうし転倒するのはもとより転倒させられたりしまったり。その時点で、結果が大きく変わってしまうじゃないですか。 何より、ショートにしてもロングにしても、トラックをグルグル500メートル滑るんじゃなくて、もし直線で500メートルだったら結果も変わってくるでしょう。「カーブ有り部門」と「カーブ無し直線部門」を設けるべきです。 (これは、水泳のターンについても同じ事を思います。ターンの上手い下手で差が出るのも変だと思います。「ターン有り部門」と「ターン無し部門」の2つが必要です。)。 ルールを設けて、しっかりと線引きをして、その決められた中でどれだけの結果を出せるか。それがスポーツの醍醐味なんでしょうけれど。 それじゃあ、4年前のオリンピックから判定ルールなどを変えちゃダメ!(←これが一番言いたいことです!) 一度決めたらずーっとずーっとそのルールでやらないと。やっていることや出した記録が同じでも「4年前のルールだと勝っていたのに!」とかおかしいですもん。 冬のスポーツ。競技も種目もたくさん増やしてメダルを穫れる選手がたくさん増えれば良いなぁ(甘いかもしれませんが)そう感じます。 |
第27回目【常識・非常識】2005年10月3日(月) |
笑いにおいて、よく語られていることがあります。『常識の無い人間に笑いはできない』という言葉です。 かなり言い古されている言葉ではありますが、私も確かにそう思っています。 この言葉の意味するところは、常識と非常識の違いを分かっているからこそ非常識な事が言える、という意味なんだと思われます。 常識を分かっているからこそ、非常識を理解できる。 常識を分かっているからこそ、常識を踏み外してしまいそうになった時に気が付ける。 常識を分かっているからこそ、常識に捕らわれないよう構えることができる。 常識を分かっているからこそ、常識の枠を破ろうとすることができる。 「非常識=おもしろいこと」だと言うわけではないですが、常識と非常識をハッキリ区別・認識できていないと、おもしろいことへの照準がグダグダになってしまいますから。 例え、同じ言動・行動であったとしても、常識を理解した上での非常識であるからこそ、おもしろくなる可能性があるのであって、常識なく、たまたまやったことが非常識であった。それは単に「無知」なだけです。 ですから、私は、「常識の無い人間に笑いはできない」という言葉に共感はします。 だけど厳密に言えば、少し違います。 いわゆる、世間一般的に常識・非常識とされていることってたくさんあると思うのですが、しかし、それらを全て何の疑いも待たずに受け入れてしまう、これはこれで、「常識の枠に捕らわれている人」となり、これまた笑いをやるにはなかなか難しい人として分類されてしまうと思います。 例えば、男性が女性の下着(パンティーです)を穿く事は一般的には「非常識」な事なんだと思いますが、これをそのまま非常識なことと思い込んで欲しくはないんですよね。 私に言わせれば、女性の下着(パンティーです。パンティー。)を穿いたことのない男はおらへん!と、思ってますから。ですから私の中で「男性がパンティーを穿くこと」は「常識」となります。 しかし、(ここからが重要なのですが)私はそれを常識だと思ってはいますが、世間一般では非常識とされているということも分かっています。 「自分の中の「識・非常識」と「世間の常識・非常識」は必ずしも一致しない。そこまで分かっていてないとただの無知になってしまいます。それを分からずに、「俺はパンティーを穿いたことがある」と公言すれば頭がおかしい奴になってしまいます。 今までずっと、「才能、センス、環境、好み」などという言葉で片付けられていた「笑い」ですが、人によって「笑えること・笑えないこと」が一致しないのは、自分の常識と他人の常識が完全に一致していることが少ないからだと思います。 「そんなこと普通ありえない」、「そうなって当たり前」、「見たり聞いたりしたことが無いから自分は知らない」などといった思いの差が人によって異なるからだと思います。そこで、自ずと、笑うことに対して程度の差はありますがブレーキがかかってしまうのではないでしょうか。 で、「常識」にガチガチに捕らわれている人ほど、そのブレーキは頻繁で且つ強くなってしまうのでしょう。いや、「常識」だけにじゃないです。「非常識」にもガチガチに捕らわれている人も、やっぱり笑いを止めてしまうブレーキは強くなってしまうはずです。 「自分はそうは思わないけれど、普通、人はそう思うんだろうなぁ」という考え方は非常に大切だと思います。 それは、他人の考えを受け入れ理解すること。そして、他人の笑いを受け入れ理解する事につながって行くような気がしますから。 笑いには、「常識・非常識」が一致しないながらも共通項を見つけて行く技術は相当必要だと感じます。 P.S あと、「じゃあ、じょるのさんもパンティーを穿いたことあるんですね!」という質問があるかもしれませんね…。なんとなく、彼女のを穿いたりとかしたことありません?いや、手段はいろいろでしょうが…。そこは問い詰めず、で。 これは、あくまでも「笑い論」です!「変態論」ではありませんので、あしからず…。 |
第26回目【漫才とコント】2005年4月18日(月) |
コラムはできるだけ、「お笑い」とは無関係の内容で書いていこうと思っていたのですが、今回は思いっきり「お笑い」と関連しています。 漫才とコントの違いについてです。 まず、「漫才とコントの違い」で一番に思いつくのは、漫才はセンターマイクがある。コントは小道具やメイクが使える・役を演じる。といった事でしょうか?間違いではありませんね。 もっと追求すると、漫才は「会話」、コントは「動き・芝居」といった違いもあるでしょうか。 いやいや、しかし厳密に言うとそうではありません。私に言わせると、それらの違いはどうでもいい違いです。それらは結果です。そのような表面的な違いではなく、やはり、なぜそうなるののかという笑いにおける部分での違いを私なりに書いていきたいと思います。 「こういう事を言いたい。こういったボケを言いたい。1つの振りでたくさんのパターンのボケがある。」という人は漫才をやるべき。 「こういった設定をやりたい。日常にありえない設定で遊びたい。こんな人がいたらおもしろい。」と思う人はコントをするべきだと思います。 1つのネタ振りでたくさんのパターンのボケがあるというのは、漫才の利点だと思います。 どういうことかと言うと、漫才は「ボケをリセットできる」からです。 「なんでやねん!今度はちゃんとやれよ!もう1回や!」といったようにボケを一旦リセットして、(同じネタ振りで)また新たなパターンのボケができるんです。 分かりやすいところで言うと、笑い飯の漫才はまさにそれで、Wボケってのが話題になってますが、それ以上に注目したいところは、お互いのボケは交互に毎回1回1回リセットされて、同じ1つのネタ振りだけでたくさんのパターンのボケを披露しているところです。 ボケをリセットすることで天丼といった手法が活きてきます。「それはもうええねん!(笑い飯で言うなら「さっき見たわ!」)」というパターンです。 さらに、ボケをリセットすることで、(ダウンタウン誘拐のネタ。身代金を持って行く場所)「浜:遠い所を言わんと!」といったネタ振りに対して、「松:じゃあ、チェコスロバキアに持ってこい」「浜:遠すぎるわ!」といったようなネタ振りを飛躍させたボケ。 (ダウンタウン野球部のネタ。野球部を辞めると言っている部員を説得して止める場面)「浜:ちゃんと止めんと!」「松:じゃあ、親父のパジャマで…」「浜:誰がお前の家に泊めろゆーてんねん!」といったようなネタ振りの意味の取り違いボケなどができます。 こういったボケ方や天丼などは、前のボケを一旦リセットして仕切り直しているからこそできるボケ方なんですよね(ダウンタウンの漫才を知らなかった方はごめんなさい!)。 そして、さらに追記するならば、ネタの流れを軌道修正しやすいということがあるでしょう。 1つの振りでたくさんのパターンのボケを出したのはいいが、これといったオチをつける事無くとも、次のテーマへ展開しやすいのは漫才の利点です。要するに今までのボケを全て無かったこともできるわけです。ですから、ネタの中盤でも、また新たなテーマを展開(話題転換)して一からスタートできるわけです。ですから、漫才のネタのテーマはいくつでも構わないわけです。 しかし、コントの場合はあくまでも1本のストーリーなわけで、テーマを突然変更するのは不可能です(それをしてしまえば漫才になってしまいます)。コントで行われたものは全て事実として最後まで残っていなければなりません。ですから、ネタのテーマは1つでないといけないわけです。 「美容師と客」というコントなら、その設定で最後までやり遂げないといけません。 漫才なら、「俺、美容師になりたかってん。俺、警察官にもなりたかってん。ホンマは教師にもなりたかってん。」と、いくらでもテーマを変えてそれぞれの話題でボケる事ができます。 漫才はボケもテーマも好きなときにリセットできるという利点があります。 次は、「ボケ」においての違いです。 ひょっとしたら、これが漫才とコントの大きな違いかもしれません。同じ「ボケ役」でも漫才とコントでは意味が少し変わってきます。 漫才でのボケ役は、おもしろいことを言ってそれを会場のお客さんに聞いてもらっている人です。 それに対して、コントでのボケ役は、おもしろいことを言う人では無いんです。コントでのボケ役の人は、おもしろい事を言っているわけじゃ無く、ただ、そういう人なんです。 漫才のボケ役はツッコまれたら、自分に戻ります(一度、コント設定に入っても、ツッコミが入るごとに自分に戻ります)。「え?今のダメなの?」みたいな感じで必ず自分に戻ります。 しかし、コントでのボケ役は自分には戻れません、というか、そもそもそういう人ですから。 漫才のボケ役は(古い表現ですが)おとぼけ役なんです。でも、コントのボケ役はそういう人なんです。おとぼけであってはならないんです。真面目にそのようなことをただ言ったりやったりしているだけの人でなければならないんです。 あとは、「設定」においての違いです。 日常的によくある場面設定、例えば、「教師と生徒」「医者と患者」といったような設定は、漫才でもコントでも可能です。 では逆に、日常的にありえない設定はコントである…という事でもないんですよね(動物や昆虫がしゃべるという事はありえないが、これは漫才でもコントでもできる許容範囲の設定です)。 もっと言えば、コント上での日常ありえない設定とは、SFであったりパラレルワールド的なものになるはずです。そのような設定さえ、しっかりと作り出せれば、あとは普通で良いんです。 例えば、「この店の肉はさすが高級だ!やわらかいなぁ。口に入れたらすぐになくなっちゃう!」という日常の普通の会話があったとします。しかし、これをウンコがごちそうである世界でやってしまうと、それはコントなんです。 「この店のウンコはさすが高級だ!やわらかいなぁ。口に入れたらすぐになくなっちゃう!」といったような感じです。 これがコントの最大の武器です。すごく普通の会話なのに、その世界の背景や習慣を変えてしまうことによって1つの設定が作れるんです。 ウンコを食べるのがおもしろいのではなくて、私たちの住んでいるこの世界と異なる世界とのギャップのおもしろさだということです。ゆるゆるのウンコが高級だというところ。何もおとぼけでウンコを食べて笑わせているわけじゃないんです。 視力が悪くなるということが無い世界を作り上げ、その設定の中でなぜか道ばたに落ちているメガネを発見する。「ん!なんだ?これは?何に使うものだ?」といった世界観を作る。これもコントとして演じるべき設定になるはずです。これも当然おとぼけではなく本当にメガネの存在を知らない人でなければならないんです。 ザ・ドリフターズのコントで「もしもシリーズ」といったものがありましたが、それも、もちろんコントを作る上での1つの手段です。 (全部ジャリズムのネタですけど)もしも喫茶店の店員が元力士だったら(客に塩をまいたりする)など、もしも葬式の司会がDJだったらなどや、もしも銀行強盗が日本語を覚えたての外国人っだったらなど。 ある設定に他のある設定を当てはめる。ある設定にある特徴をもったものを当てはめる。これはコントを作る考え方です。 ネタのテーマやネタ振りを「お題」と考えたくさんのボケパターンを出す。これは漫才を作る考え方です。 そして、これはやっぱり忘れがちになると思いますが、漫才は「人に見られているのが前提」であるということ。 コントは「人に見られていないのが前提」であるということです。(もちろん、ここでの人とはお客さんのことです。) 漫才は2人のしゃべりをお客さんに聞かせているわけです。コントはそうではありません。ある時ある場所での出来事の切り取られた一部分が行われているだけです。ですから、それ以前のストーリー、それ以降のストーリーがあるはずです。そして、そこに第三者の姿は無いはずです。 暗転(舞台照明が真っ暗になる)で終わるコントなどがありますが、あれは、(コント自体はそこで終わっていたとしても)それ以降のストーリーがまだまだ続くということを表現しているわけです。 しかし、漫才は、「はい!ど〜も〜」と舞台に出てきてからがスタートで、「もうええわ!やめさせてもらうわ」で完結なわけです。お客さんに見られているのが前提なので、お客さんの前に立って見られている部分が漫才という状態です。 こういった観点で見ると、センターマイクの有無だとか、小道具が使えるなどといった違いがどうでもいいような違いであるということが少しは分かって頂けたと思います。 そして、さらにこういった観点を持つと、、新人の芸人さんなどが、「もうええわ!」「ええかげんにせい!」などのツッコミで終わるコントをしているのを観ると、「こいつら、わかってへんやっちゃなぁ〜」と気付けると思います。コントそのものの意味がわかっていない「コントもどき」をしている芸人なんだなと感じられるはずです(まあ、内容がおもしろければそれでええんですけどね!)。 ただ、1つだけ、漫才とコントの大きな共通点もあります。それは「人を笑わせる」ということです。 (うわぁ…、このまとめ方、全然うまないな…。。むしろ恥ずかしいまとめ方や…。。) |
第25回目【スタイル】2004年12月3日(金) |
最近はあまり行ってないんですが、私、わりとカラオケが好きでして。 で、私、Mr.Childrenばっかり歌うんです。すると、大体、「また、ミスチルかいな?」という反応が返ってくるのですが、何を言ってるんだ!と。同じMr.Childrenでも歌によってメッセージの内容は様々やぞ!と。当然、誰も納得しないことを思ったりします。あ、あと、L'Arc〜en〜Cielとかも歌います。 それでもですね、歌に関しては「うまい!」とたまにですが言われるんです!でもね、そこで素直に喜んでちゃいけないんです。 と言うのも、Mr.Childrenを歌う時は、どこか桜井さんっぽく。L'Arc〜en〜Cielを歌う時はどこかhydeっぽく歌ってしまうんです。モノマネとかそういったことじゃなく、歌い方の癖や声質(かすれ具合とかしゃがれ具合とか)といったものなどを無意識に真似て歌ってしまってるんですよね。自分自身の歌い方で歌ってないんですよね。 それに初めて気付いたのが、昔、KinKiKidsを歌った時、見事に指摘されたんですよ。「すごい!ちゃんと剛のパートと光一のパートで歌い方を分けてるんやね〜」って言われたんです。ハッと思いました。いや、ナヌッ!と思いました。そうです!無意識に剛くんと光一くんの歌い方をそれぞれ真似て歌ってたんです。 で、何を言いたいのかと言いますと、プロと呼ばれる人達のすごいところって、やっぱりどんな歌を唄っても自分の歌い方で歌うじゃないですか。あれってすごいことなんだと。 Mr.Childrenが尾崎豊さんの「僕が僕であるために」をカバーして歌ったのを聴いても、やっぱりどう聴いても桜井さんの歌い方なんですよね。自分のスタイルが確立されている。(※もちろんMr.Childrenに限ったことではありませんよ。) で、絵でもそうなんです。最近はあまり描いてないんですが、私、絵を描くのが趣味でして。鳥山明っぽいタッチで描けと言われたら描けるんです。荒木飛呂彦っぽいタッチで描けと言われても描けるんです。 でも、これも先程と同様で、ただ真似してるだけなんですよね。自分自身のタッチというものが無いんです。 ご存知ですかね?ドラゴンボール完全版っていう赤い表紙の本がありましたが、あれに挟まれていたリーフレットで、若い漫画家さん達がドラゴンボールについての思い出などを語っているのが載っており、いっしょに、悟空やフリーザなど思い出のキャラを挿絵として描いたものも載っていたのですが、やっぱり、見事にそれぞれの漫画家さん達のタッチで描かれてるんですよね。 鳥山明さんの真似になっていない。それぞれ自分のスタイルが確立されているんです。 ですから、歌にしても絵にしても、ただ他人の癖を上手に真似ること(モノマネとかパクリという意味ではありません)、CDそっくりに歌うこと、そっくりに模写できるということ。実はそれって本当に「出来る」というわけじゃないんですよね。(特に創作の世界だと)こういった事をやってしまうのはプロを目指すアマチュアにとっては致命的だと思うんです。 私はアマチュアですからいいんですけど、たまにプロ(新人など)にそういった奴がいるのを見ると、わかってへんなぁと思うんです。それが例え、真似や模倣じゃなく生まれつき似てしまっていたとしても、やっぱりそこは避けるべきだと。 そっくりにマネしたくても、うまく似せれない。実はその部分こそが本当の自分のスタイルなんです。 |
第24回目【性格】2004年6月13日(日) |
皆さんは自分の性格って好きですか?どんな人でも、一度ぐらいは「性格変えたいわぁ〜」と思った事があるのではないでしょうか?そういう事を考えた事が無いって人には「幸せなんだなぁ〜」と、うらやましく思ってしまいます。 私はホント昔から自分の性格を好きになれないんです。いや、もちろん自分で好きな部分もあるんですよ。でも逆に嫌な部分はもっと多くて、性格を変えたい・改善したいと考える事が多いです。 でも、それって、自分に自信が無いとか卑下しているわけではなく、やっぱり自分の性格って他人からは見えないですからね。良いとこも悪いとこも自分でわかるじゃないですか。 私も性格を変えるために何か良い方法は無いかと試行錯誤しておりましたが、1つ、性格を変える良い方法を思い付きました。その方法は、今の性格の悪い部分を良くするという事にはならないかもしれませんが、今の性格を180度変えるという狙いがあります。 その方法を簡単に説明すると「逆に行動してみよう!」という事です。 頭で思い付いた行動と逆の行動をとってみるんです。もっと言えば、今まで自分がやらなかった、または無意識に避けていたであろう行動を敢えてやってみるんです。 例えば、簡単なところで言うと、今まで信号を守った事がないという人は頑に信号をしっかり守ってみるんです。食事で好物を最後に食べるという人は一番まっ先に食べてしまうとか、写真撮影の時どうしても端っこや後ろの方でばかり写ってしまうという人は先頭の一番まん中で写ってみるとか、足を組むとき右足が上になる人は左足を上にして組んでみるとか。あと、筆跡とかもそうです。右上がりの字を書くという人は敢えて左上がりの字を書いてみたり、小さく細い文字を書くという人は敢えて6B鉛筆で枠からはみ出すぐらいのごっつい字を書いてみるようにしたり、などなど… 最初のうちはその行動が気持ち悪く違和感を感じる事でしょうけれど、それにいつしか慣れて無意識にできるようになっている頃には、性格が180度までとは行かなくても45度、90度ぐらいには傾いているかもしれませんよね。その時点で少し性格が変わっているとは言えないでしょうか? この方法に効き目があるかどうかはわかりませんし、ひょっとしたら、心理学とかに精通されている人にとってはズバリ「効果は無い」と言われてしまうかもしれませんが、私としてはそんなに間違った方法でも無いのではないかと思っております。 要は、自分の今現在の習慣化してしまっている性格や役割的な性格を改善しようという事です。 このコラムを読まれて、「なるほど!納得できる!是非その方法を実践してみよう!」と思った方は、まずは、他人の言った事をすぐ鵜呑みにするという性格を変える必要があるかもしれませんけどね。 |
第23回目【返し】2004年2月4日(水) |
「返し」というものを意識して会話をしている人って少なすぎますね。それは、普段から「人を楽しませる」という事を意識している人々が少ないという事の表れだと思うんです。 私はいつも、「ええ返しをしろよ!」と思います。いや、厳密に言うと、「ええ返しを用意しておけよ!」と思っています。 例えば、年末年始やGWなどの連休明けって、絶対に周囲から「どこか出掛けてたの?」「休み中、何してたの?」って聞かれるじゃないですか。 それ以外でも、遅刻した時には「なんで遅れたの?」とか、髪型を変えたら「なんで、髪型変えたの?」とか、他多数…。 そういった何かしらの質問をされる事が確実に予想できる状況ってあるでしょ?一般の人々にとって、それらはただの日常会話なんでしょうけれど、私にとって、それらは「ネタ振り」なんですよ。ですから、いつもそういった時は、事前にそれなりの「返し」を用意しておくわけです。 でも一般の人々は「返し」を用意するなんて考えた事もないのでしょうね。それがちょっと腹立つんです。 なかなか、おもしろい返しを用意している人っていないです。だいたいフツーに真面目に答える…。 とは言え、突発的な質問に対して突発的におもしろい返しをするのには才能や技術が必要ですから、そのような場合は問題視しません。 しかし、質問される事が確実に予想できる状況だと、いくらでも返しを考える時間があるじゃですか。それでもフツーの事しか返せないって…、そんなん、あきませんやんか!何か用意しとけよ!!って。 例えば、待ち合わせをしていて友達が遅刻してきたら、私は絶対に聞くんですよ。「なんで遅れたん?」って。 もちろん、それは遅刻した本当の理由を知りたいわけではなく、ネタ振りなんです。遅刻をしたら理由を聞かれる事ぐらい絶対予想できるはずなんですから、「おもしろい返しをしてくれよぉ〜」という期待を込めて聞いてみるんです。 いや、どちらかと言うと、遅刻してきたんだから何か考えてきてるはずだ、じゃあ、俺がネタ振りの役をするわというニュアンスが強いです。 しかし、普通に遅刻の言い訳をする人間がほとんどです。もう、絶望…失望…です。 遅刻した本当の理由なんて、どーーーっでもいいんですよ。それで笑わしてくれたら遅刻なんて全然許せるんですよ。いや、おもしろくなくても、私たちを笑わせるためにおもしろい返しを考えていたんだなぁと思えると遅刻の1つや2つ許せると思いません? 他にも、「返し」について言いたいことがあります。 会話中こっちが笑わせようとボケると、「あ!それ!絶対に言うと思った!」と、鬼の首でも取ったかのように返してくる奴っていませんか?もう最悪ですよね…。 正直、そういう時って発想的には、なんにも合ってないんですよ。言葉の表面だけがたまたま合ってたというだけで、「それ、絶対に言うと思った!」とかって言いよるんですよね。「いやいや、俺の発想とお前の予想は一致してへんねんっ!」ただ、フレーズ上、似ていただけだと。 そういう返ししかできない人々におもろい人間なんて絶対いません。ただ優越感を味わいたいだけなんです。そこに、人を楽しませよう・笑わせようという気持ちは一切ありません。「お前の言う事ぐらい俺はお見通しだ!」みたいな感じになっているだけです。 いや、でもいいでしょう。じゃあ、百歩譲って、私の発言したボケを予想されていたとしましょう。 じゃあ、それに対する気の利いた「返し(ツッコミ)」を考えとけよ!と私は思うわけです。「それ、絶対に言うと思った!」って言葉で言われても絶対笑いには結びつかないじゃないですか。予想しただけで終わるんじゃなく、もう一歩その上を行けよ!と。 そして、その返しがおもしろくてさらに間も良ければ、ボケを予想(先読み)されていたんだなぁと、こっちは解釈できるじゃないですか。その時に、初めて、こちらも一本取られたなと思えるわけです。 そんな難しい事じゃないと思うんですけどね。 「相手からこういう事を聞かれるだろう。」、「相手がこういう事を言うだろう。」という事が予想できる場合は、できるだけ気の利いたおもしろい「返し」を考えとこうよって思うんです。 |
第22回目【会話】2003年12月19日(金) |
会話ができない人って多いですよね。そんな事を思ったりすることはありませんか? 単純に、「会話が出来ない=無口」という、そんな事を言っているわけではないんです。どちらかと言うと私も口数は少ない方です。 大多数の人々の会話のテーマは、だいたいテレビの話題が多いですよね。それらを話題にして会話する場合、中身が空っぽなんですよね。 テレビで観たり聞いたりした情報をそのままなぞって言っているだけなんです。そういった会話の中に自分達の「考え、意見、提案」などが一切出てこない。 という事は、別に会話する相手は誰でもいいんですよ。会話の内容全部同じですから。 やっぱり、会話する以上、その人ならではの考え方や意見を聞きたいんです。そういった部分で会話を楽しみたいんですよね。あった事実だけをそのままなぞって言われてもねぇ…。「あ、そうなの。」としか言えません。 ですから、先ほど「私も口数が少ない方」と書きましたが、それはそのような類の会話しかできない人としゃべる時の場合です。 やっぱり、独自の考え方や意見を話題にしてくれるような人とは口数も多くなります。もっと言えば、おもしろい事を言える人であればそれこそマシンガンのようにしゃべります(ボケ合い、ツッコミ合いに負けてられないですからね。それに自然とテンションも上がりますから)。 そして、私、おもしろい事だけしかしゃべりたくない人間ですから、自分の頭の中に、誰もがやってるようなフツーの会話しか思い浮かばなかったら、しゃべらない方がマシだとさえ思っています。 最近もありました。会社で後輩の男の子としゃべってたんですけどね。 「広末涼子結婚するらしいですねー。」という話題を振られました。それだけで終わられると、まさにその後輩は会話ができない奴になるんですが、ちゃんと続きがあります。 「お祝いコメントで、なぜか森末慎二がコメントしてるんですよ!なんでお前がコメントするねん。接点ないやん!と思いましたよー。」と言われました。おー!ちょっとええツッコミするやんと思いましたが、会話はさらに続きます。 「でも、あの2人どんな関係があるんでしょうね?」と言われたので、 「そうやなぁ、漢字の穴埋め問題で縦と横になるぐらいの関係しかないわなぁ。」って言ったら、 「CMとかで共演してたんですかねぇ〜!?」って言うんです。 ん?あれれれ?会話成立してなくない?無視された?今めっちゃおもろいこと言ったよ…!!! こうなると、私はもうしゃべれません…。 おもしろいボケより、そういった事実(2人の本当の関係)を知る方が優先されるの?と思うと…。 そういう(事実だけをなぞる)会話をするなら、別に私じゃなくてもいいんですよ。他の人としゃべっておいでって。そして私は失望して無口になってしまう。 でも、頑張って会話を続けてみました。 「妊娠5ヶ月らしいなぁ。」と言うと、 「ビックリしますわぁ、5ヶ月前に仕込んだんですよねぇ!7月頃ですね!」だと。 あれ?あれれれ?今度は食い付いてきた!!全然、おもしろくないのに…。フツーの事を言っただけやのに…。なんか、すごく寂しくなりますね…、ホント。 でも、そういった内容でも、周囲の人々は笑い合ったり楽しそうにしている(ように見える)。 という事は、会話ができていないのは私の方みたいです。 だからなのでしょうか?私は、周りの人々と会話していて、「楽しいなぁ」と思える事ってほとんど無いです。こうゆう時、人と違った感性を持って生まれてきた事を後悔する瞬間でもあります。 絶対イヤですし、そうはなりたくないんですが、「もっと普通の人として生まれたかった…。」と一瞬思ってしまいます。だって、ホントに理想とするような会話ができないですから…。寂しいですね…。 一体、おもしろい人ってどこにおるの? |
第21回目【ジェネレーションギャップ】2003年12月16日(火) |
私、今、28歳なんです。でも、見た目、若く見られ、また自分でも若いつもりですがもう立派な大人です。大人になってくると自然と思ってしまうんですよね。「最近の若いもんは!」って。 典型的なのが、やっぱり、携帯電話を使う若者達です。私は携帯電話なんか特に必需品だとは思ってないのですが、それを生活における絶対的な必須アイテムと考える若い人達にジェネレーションギャップを感じます。 私の世代って中途半端な時代だったんです。高校生時代、もちろん携帯電話などなかったですし、まだポケベルもなかったです。 でも、今は学校に携帯電話を持って行くんですよね?まず、その時点で軽いジェネレーションギャップをくらいます。授業中、机の上に置いていたりメールしてたりするんでしょうか?授業中着信なったりとかあるのでしょうか?ちょっとイメージできないです…。 駅のホームなどで、女子高生が(例えば2人)で会話をしている。そこに、1人のコに着信が入る。なんのためらいもなく普通に電話に出る。そして、その瞬間から電話の相手との会話になる。その時のもう1人のコの立場はどうなの…?さっきまで仲良く会話していたそのコの存在は突然どこへ行ってしまったの? もう、これが私にしたら信じられないんです。さっきまでの会話の流れを中断してまで電話に出るというその行動が。放っておかれたもう1人のコに対してめちゃめちゃ失礼な行動だと感じます。でも、逆にもう1人のコの着信が鳴ったら鳴ったで、結局、そのコも同じ行動を取るんでしょうけど…。 うーん、そう考えると、案外放っておかれても今の若い子達は平気なのかもしれないですね。 そして、それは私にとってジェネレーションギャップ以外の何物でもない。 それで!それでですよ!電話の相手としゃべり終わると、「ん?何の話やったっけ?」とか言う。えっーまた最初からなん!? 私は人との会話中、おしりのポケットで携帯が振るえていても気付かない振りをします。 「あ!着信や!」と思って、ポケットに手を当てた時点で変な間が空いて会話に支障をきたしますから(という気がしています)。「気にせんでいいから電話出ーな」って言わすこと自体、会話を中断させて、相手に気を使わせているような気に陥るのです。 私の経験上、私より5歳年下ぐらいの世代。その辺りを境にこのような気持ちの差があるような気がします。 「おっさんのうるさい意見だな〜」という声も聞こえてきそうですが、だからと言って、今の若い子達を非難しているわけじゃありません。社会です。そういった社会を作り出してしまったおっさん達が悪いと思いんです。 「急用かもしれないじゃないか!」というご意見もあるかと思いますが、あくまでも日常的な部分でのお話で、緊急時のお話じゃありませんので、電話に出ても構わないんですよ。ただ、その時の「気持ち」についての意見です。御了承願います。 ※「ジェネレーションギャップ」というタイトルに違和感を感じられる方おられるかと思いますが、私の身の回りで、私と同世代の人間に、たまたま携帯電話依存症の人間がいなかっただけという浅い理由の為です。御了承願います。 |
★前のページ(第11回〜第20回)へ
★次のページ(第31回〜最新まで)へ